四無量心(仏菩薩の慈悲を表わす心)

 「四無量心(しむりょうしん)」は、楽を与える慈無量心、苦を抜く悲無量心、万人の喜びを自分の喜びとする喜無量心、および、上記の三心にとらわれず、あらゆる怨みを捨てる捨無量心の総称です。最後の無量心は「平無量心」とも呼ばれます。その四つの無量心とも仏菩薩の慈悲を表わす心なので、「四梵行」とも呼ばれます。真言密教でも、この四つの無量心は基本的にひとつの慈悲深い菩提心を指します。したがって、四無量心観とは仏と菩薩の慈悲を観想するための方法です。
 真言密教行者の四無量心観の目的は大日如来のような広い心をもつことです。つまり、四無量心観は即身成仏のために重要な観法です。
 仏教の「無量心」は英訳でgreat mindと翻訳されていますが、キリスト者のためにはgreat heartと翻訳する方がわかりやすいのです。イエスはこのような広い心を常にもちましたので、キリスト者はそれを学ぶことにしています。カトリック教会の司祭も常にイエスの四無量心を観想し、司牧の中でもつべきだと考えています。以下では私の経験を分かち合いたいと思います。

 ある日、一人の婦人が教会を訪ねてきました。彼女は教会のホームページを見て楽しそうな共同体だと感じたと言いました。そして、その方は自分の抱えている悩みを話しました。夫との離婚・乳癌・息子の家庭内暴力などの悲しい話でした。私はその婦人を慈しんで、教会はこの方のために何ができるのかと考えました。そこで、教会の共同体に受け入れるように教会入門講座に参加することを薦めました。そうすると、信者の生き方や考え方を学ばせることも、また自分の悩みを打ち明けることもできるのではないかと考えました(慈無量心)。
 その後、婦人は少しずつ悩みを打ち明けて、私は余計に悲しくなりましたが、その苦しみの裏にある寂しさ、身体への執着、子どもの教育への執着なども見えてきました。そこで、いろいろなたとえ話を通して、自分の「業」を悟らせるために努力しました。子どもが家庭内で大声や乱暴な言葉を発したり、家の中のものを壊す、などの行いをするのは自然なことではないと私は言いました。両親の教育がどこか足りないところや間違っているところがあることによる問題ではないかという疑問をもっていたからです。さらに、話を聞くと、婦人は息子に医者になってほしかったけれど、本人は散髪屋の仕事に興味をもっていたそうです。また、子どもがいつも破れたジーンズで出かけることがいやだと言いました。そこで、婦人に息子の生き方と息子が勉強したいことを尊重するように助言しました(悲無量心)。
 ある日、その婦人は教会に来て、「神父さん、息子の暴力が終わりました。奇跡だ!」と喜んで話しました。それは奇跡ではなく、自分の執着がなくなったので、息子はもう一度親からの愛を感じるようになった出来事だったと私は説明しました。同じように、健康への執着や寂しさに関しても助言しました。婦人はその助言に従い、少しずつ元気を取り戻し、教会の共同体も気に入って洗礼を受けることにしました。こうして、婦人は立派な信者になったことは教会の皆の大きな喜びでした(喜無量心)。
 洗礼を受けたその方は、いま神の愛で生きていますから、私も安心しました。なぜかというと、その方はこれから何があっても神の愛で生き続けられるからです。その後、私は東京に転勤となりました。もう少しその婦人の行く道を見守りたかったのですが、それは一つの執着であったかもしれません。そういうときこそ司祭として「断舎離(だんしゃり)」の精神が大切で、他の悩みを持っている次の人のために助かった人を”捨てる”べきです。もちろん、心の中でその人を捨てた訳ではありませんが、その方のためにも自分のためにもそれぞれが選んだ道を歩み続けるのは理想的です(捨無量心)。
 その婦人は乳癌の手術を受けましたが、術後のケアが不十分だと言い、いつもつらい思いをしていましたが、しばらくして、シンガポールまで出かけてケアについて学び、今はその天職に就いています。そのような仕事は生活費を得るだけでなく、心の栄養にもなりますし、自分の聖化のためにも有意義な仕事(召命)でしょう。
 
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