性の多様性が、基本的に生物学的な必然だとしたら

 (中略)現代の生命科学が教えている性というのは、遺伝的に絶対的に決定されているものではない(中略)。
 人体が発生してゆく途上で、何事もなければ、人間はすべて女になってしまう。(中略)
 人間の自然体というのは、したがって女であるということができる。男は女を加工することによって、ようやくのことに作り出された作品である。男らしいというさまざまな特徴は、したがって単なる女からの逸脱にすぎないのである。(中略)
 従来、性に対する絶対主義的な概念に基づいて、あいまいな性、すなわち「間性」についてひどい差別が行われてきた。半陰陽という言葉のもつ暗さ。同性愛を異常性欲として差別し、ときには道徳的な罪を着せて排除してきた性の帝国主義。
 しかし、ここに述べた自然の性の分化過程を考えれば、さまざまな段階での「間性」が成立するのは、生物学的必然なのである。二万人に一人位の割合で、遺伝的な性と反対の身体的な性を持っている人がいると言われる。決して稀なことではない。
 まして脳の性は、胎児期のホルモン環境によって副次的に決定される。ことに性行動に関与する神経回路網の形成は、その時期にアンドロゲンにさらされたかどうかで異なる。とすれば、性的同一性の決定は胎児のおかれたさまざまな環境要因(それば大部分母胎からのものであるが)によって左右されるのは当然である。よく知られた統計によれば第二次世界大戦前後の1942年から1947年に生まれた男性の同性愛者の比率は、それ以前および以後に比べて有意に高いことが報告されている。戦争のストレスが母体におけるホルモンのアンバランスをきたしたためとされている。
 しかし私には、間性も間性的行動様式も、自然の性の営みの多様性の中で正当に位置づけられるべきと思われる。性の多様性が、基本的に生物学的な必然だとしたら、それを基礎にして生み出される性の文化的多様性も受け入れるべきであろう。女と、その加工品である男だけという単純化された二つの性と、それによって営まれる生殖行動しか存在しないよりも、さまざまな間性と間性的行動を持った人間の方が、生物学的にも文化的にもより豊かな種のように思われる。(p.115、l.15-p.117、l.16)