Release from Every Problem

 It is not difficult to understand the reasons why you do not ask the Holy Spirit to solve all problems for you. He has not a greater difficulty in resolving some than others. Every problem is the same to Him, because each one is solved in just the same respect and through the same approach. The aspects that need solving do not change, whatever form the problem seems to take. And it is not the form that can be solved. A problem can appear in many forms, and it will do so while the problem lasts. It serves no purpose to attempt to solve it in a special form. It will recur again and yet again, until it has been answered for all time and will not rise again in any form. And only then are you released from it.
 The Holy Spirit offers you release from every problem that you think you have. They are the same to Him because each one, regardless of the form it seems to take, is a demand that someone suffer loss, and make a sacrifice that you might gain. And when the situation is worked out so no one loses is the problem gone, because it was an error in perception, which now has been corrected. One mistake is not more difficult for Him to bring to truth than is another. For there is but one mistake: the whole idea that loss is possible, and could result in gain for anyone. If this were true, then God would be unfair; sin would be possible, attack be justified, and vengeance fair. This one mistake, in any form, has one correction: There is no loss; to think there is, is a mistake.
 You have no problems, though you think you have. And yet you could not think so if you saw them vanish one by one, without regard to size, complexity, or place and time, or any attribute which you perceive that make each one seem different from the rest. Think not the limits you impose on what you see can limit God in any way. The miracle of justice can correct all errors. Every problem is an error. It does injustice to the Son of God, and therefore is not true. The Holy Spirit does not evaluate injustices as great or small, or more or less. They have no properties to Him. They are mistakes from which the Son of God is suffering, but needlessly. And so He takes the thorns and nails away. He does not pause to judge whether the hurt be large or little. He makes but one judgement: that to hurt God's Son must be unfair, and therefore is not so.
 You who believe it safe to give but some mistakes to be corrected while you keep the others to yourself, remember this: Justice is total. There is no such thing as partial justice. If the Son of God is guilty, then is he condemned, and he deserves no mercy from the God of justice. But ask not God to punish him because you find him guilty and would have him die. God offers you the means to see his innocence. Would it be fair to punish him because you will not look at what is there to see? Each time you keep a problem for yourself to solve, or judge that it is one which has no resolution, you have made it great, and past the hope of healing. You deny the miracle of justice can be fair.
 If God is just, then can there be no problem that justice cannot solve. But you believe that some injustices are fair and good, and necessary to preserve yourself. It is these problems that you think are great and cannot be resolved. For there are those you want to suffer loss, and no one whom you wish to be preserved from sacrifice entirely. Consider once again your special function: One is given you to see in him his perfect sinlessness. And you will ask no sacrifice of him, because you could not will he suffer loss. The miracle of justice you call forth will rest on you as surely as on him. Nor will the Holy Spirit be content until it is received by everyone. For what you give to Him is everyone's, and by your giving it can He ensure that everyone receives it equally.
 Think, then how great your own release will be when you are willing to receive correction for all your problems. You will not keep one, for pain in any form you will not want. And you will see each little hurt dissolve before the Holy Spirit's gentle sight. For all of them are little in His sight and worth no more than just a tiny sigh before they disappear, to be forever undone and unremembered. What seemed once to be a special problem, a mistake without a remedy, or an affliction without a cure has been transformed into a universal blessing. Sacrifice is gone. And in its place the love of God can be remembered, and will shine away all memory of sacrifice and loss.
 He cannot be remembered until justice is loved instead of feared. He cannot be unjust to anyone or anything, because He knows that everything that is belongs to Him, and will forever be as He created it. Nothing He loves but must be sinless and beyond attack. Your special function opens wide the door beyond which is the memory of His love kept perfectly intact and undefiled. And all you need to do is but to wish that Heaven be given you instead of hell, and every bolt and barrier that seems to hold the door securely barred and locked will merely fall away and disappear. For it is not your Father's will that you should offer or receive less than He gave when He created you in perfect love.

(p.778l.3-p.780l.18)

いまに生きる

 この年の春の終わり近く、ブッダが祇園精舎に戻ったときのことである。ある朝、ブッダがサーヴァッティーに行くと街は廃墟のようだった。扉にかんぬきをかけ、誰ひとり通りを歩くものはいなかった。ブッダは家の前に立っていつものように托鉢をしようとした。家の扉がかすかにひらき、わずかな隙間からのぞいた目がブッダを認めると、家主が飛び出してきてブッダを家の中に引きずりこんだ。家主はすぐに鍵をかけてブッダを座らせ、家の中で食べていくように薦めた。「先生、今日外を歩くのは危険ですよ。殺人鬼のアングリマーラがこのあたりをうろついているんです。やつはよその町で何人も人を殺したそうで、ひとり殺すたびに指を一本切りとって、紐を通して首からぶらさげます。100人殺せば満願だそうだが、指100本で作った護符が完成しちまったら、きっともっと恐ろしい邪悪な力を手に入れるんでしょう。奇妙なことに、こいつは殺した人から物を盗みはしないんです。とにかく、いまパセーナディ陛下が軍隊と役人の大部隊を組織して、こいつをとっ捕まえようとしているところなんですよ」
 ブッダは訊ねた。「たったひとりの男をとり押さえるだけなのに、どうして陛下はそんな大勢の軍隊や役人を駆りだしているのですか」
 「ゴータマ先生、アングリマーラは並の人殺しじゃないんですよ。とんでもない武芸の持ち主で、こないだも通りで、40人がやつをとり囲んだんだけれど、みんなやられてしまったんですから。あやうく皆殺しにされるところを、かろうじて1人、命からがら逃げだしたんです。アングリマーラはジャリーニーの森に潜んでいるらしいので、誰も近づきません。つい最近も20人の武装した役人が森に入って捕まえようとしたんですが、生きて戻ってきたのはたったのふたり。やつがこの街に姿をあらわしてからは、仕事をしたくても買い物に行きたくても、家から一歩も出られないありさまでしてね」
 ブッダはアングリマーラについて教えてくれた家主に礼を言って、家を出ようと立ち上がった。家主は引き止めたが、いつものように托鉢を続けて人々の信頼を保たなくては、と言って出て行った。
 ゆっくり<気づき>を持って通りを歩いていると、突然うしろから、誰かが走ってくる足音が聞こえた。アングリマーラだろう。だが、ブッダは恐れなかった。自分の内外で起こっているすべてに気づきながら、そのままゆっくり歩みをすすめた。
 アングリマーラが叫んだ。「おい、そこの修行者、止まれ!」
 ブッダはさらにゆったりと落ち着いた足取りで歩き続けた。アングリマーラが走るのをやめ、早足で歩きながら、すぐそばまで近づいてきているのが足音からわかった。
 ブッダはすでに56歳になっていたが、視力も聴力もこれまで以上に冴えている。托鉢の椀以外には何も持っていない。そういえば、と、ブッダは思い出し笑いをした。若き王子のころは、私も武術に長けて敏捷であったものだ。格闘で負けたことはない。アングリマーラがすぐそばまで来ているのがわかる。まちがいなく武器を持っている。しかしブッダは、あいかわらずゆっくりと歩き続けた。
 アングリマーラはブッダに追いつき、ブッダと並んだ。「止まれと言っただろうが、坊主。なぜ止まらん」
 ブッダはなおも歩き続けた。「アングリマーラ、私はとっくに止まっている。止まらなかったのはあなたのほうですよ」
 アングリマーラはブッダの意外な返事に意表を突かれた。ブッダの行く手をさえぎって無理やり止まらせたが、その時ブッダはアングリマーラの目を覗き込んだ。アングリマーラは再度たじろいだ。ブッダの瞳がふたつの星のように輝いていたからだ。こんなに静まり、平和な輝きを発する瞳を見たことがない。それに、人は皆恐れて逃げていくのに、なぜこの修行者は恐怖を示さないのか。ブッダはまるで友達か兄弟を見るように彼を見つめている。いまこの坊主はアングリマーラの名前を呼んだ。ならば、自分の正体はとっくにばれているわけだ。自分のおぞましい行為も先刻承知だろう。それなのに、どうしてこんなに静かに落ち着いて人殺しの顔を見つめられるのか。突然アングリマーラは、ブッダのやさしくて静かなまなざしが耐えられなくなった。「坊主!おまえはもうとっくに止まっているといったな。しかし、おまえはいまも歩いているじゃないか。おれのほうが止まっていないと言ったな。そりゃ一体どういう意味だ!」
 ブッダは応えた。「アングリマーラ、私はもうとうの昔に、命あるものを苦しめることをやめたのです。そして命あるものを守ることを学んだ。人間だけではなく、すべての命あるものはみな生きたがっている。命あるものはみな死を恐れる。慈悲の心を養ってすべての命を守らなければならない」
 「人間が愛し合うもんか。だいたい、なぜ人を愛さねばならん。人は残酷だ。平気で人をだます。おれはやつらをひとり残らずぶっ殺してやるんだ!」
 ブッダはやさしく語った。「アングリマーラ、あなたが人に苦しめられ、深く傷ついていることを、私は知っています。ときとして人は残酷になる。だが、その残酷さは、無知と憎しみと欲望と嫉妬の結果なのだ。しかし人は他を理解できる慈悲深い生き物でもある。あなたは比丘に出会ったことがありますか。比丘とは命あるすべてのものを守るという誓いを立て、欲望、憎しみ、無知を克服することを誓ったものたちのことです。比丘だけでなく、ほかにも理解と愛の元に暮らしている人々はたくさんいる。アングリマーラ、この世は残酷に満ちているかもしれない。しかし親切な人もたくさんいる。よく目を開いてみるがいい。私の道は暗黒の闇をいたわりとやさしさに変えることが出来る。いまあなたは憎しみの道に立っている。立ち止まりなさい。そして、その道ではなく、許しと理解と愛の道を選ぶのです。
 この言葉にアングリマーラの心が動いた。彼は混乱していた。突然、自分が切り裂かれて、開いた傷口に塩をすりこまれたような痛みを感じた。ブッダの言葉には愛があった。アングリマーラはブッダの愛を理解した。ブッダのなかにはいかなる憎しみもいかなる嫌悪もない。まるで尊敬すべき全き人間であるかのようにおれを見ている。もしかしたらこの修行者は、いま人々の尊敬を一身に集めているゴータマとかいうやつ、「ブッダ」と呼ばれるあの男かもしれない。アングリマーラは訊ねた。「坊主、おまえがあのゴータマか」
 ブッダはうなずいた。
 アングリマーラは言った。「もう遅い!おれはとっくに悪と破壊の道にどっぷり浸かっているからな。もうあと戻りなどできん」
 ブッダは言った。「アングリマーラ、よい行いをするのに遅すぎることは決してない」
 「このおれにどんなよい行いが出来るというか!」
 「憎しみと暴力の道を行くのをやめなさい。アングリマーラ、苦しみの海は果てしなく大きい。だが、ふりかえれば岸が見えるはずだ」
 「ゴータマ、たとえおれがそう望んでも、いまとなってはもう戻れん。これだけのことをしてきたのだ。平和に生きることなど絶対に許されん」
 ブッダはアングリマーラの手を握った。「アングリマーラ、あなたが憎しみの心を捨てて、仏道の研鑽と修行に献身するというならば、私があなたを守ってあげましょう。心を入れかえて、人々のために働くと誓いなさい。あなたが知性の人であることは見ればすぐにわかる。あなたはきっと悟りの道で成功する。何の疑いもありませんよ」
 アングリマーラはブッダの前にひざまずいた。背中にしょっていた剣を地面におき、ブッダの足元に突っ伏した。そして両手で顔を覆って、大声で泣きはじめた。どれだけ時間がたったろうか。アングリマーラは顔をあげて言った。「悪の道を捨てると誓う。これからはあなたに従って慈悲を学ぶ。だから、あなたの弟子にしてください」
 そのとき、サーリプッタ、アーナンダ、ウパーリ、キンビラ、そのほか数人の比丘たちがその場に駆けつけて、ブッダとアングリマーラをとり囲んだ。しかしブッダが無事で、しかもアングリマーラがブッダに帰依しようとしているのを見て、喜びを感じた。ブッダはアーナンダに、使っていない法衣を一式、アングリマーラに与えるように言いつけた。それからサーリプッタに隣の家から剃刀を借りてこさせて、ウパーリにアングリマーラの髪を剃らせた。アングリマーラはその場で即座に得度した。アングリマーラはひざまずいて三宝帰依を朗誦し、ウパーリが戒律を授けた。そうして一同は祇園精舎に戻っていった。
 それから10日間、ウパーリとサーリプッタはアングリマーラに戒律と瞑想の実修や托鉢の仕方を教えた。アングリマーラはこれまでのどの比丘より熱心に努力した。得度から二週間たってブッダが様子を見に訪れたとき、ブッダでさえもアングリマーラの変わりように驚いた。アングリマーラは静寂と安定の光を放つ比丘に変身していた。その姿がまれに見るやさしさをたたえていたので、比丘たちは彼を「アヒンサカー」と呼んだ。「非暴力の人」の意味である。実は、これは、アングリマーラが生れ落ちたときにもらった本当の名前だった。スヴァスティはこれが一番ふさわしい名前だと思った。ブッダを別にすれば、まなざしがこれほど優しさに満ちている比丘は、どこにもいなかったから。
 ある朝ブッダは、アヒンサカーを含む50人の比丘たちを連れて、サーヴァッティーに托鉢にでかけた。城門に着いたとき、パセーナディ王が一個連隊を従えて軍馬に乗っているところに出くわした。王も将軍たちも完全武装のいでたちである。王はブッダの姿を見つけ、馬から下りて会釈した。
 ブッダが訊ねた。「陛下、何ごとでありましょう。隣国が国境まで攻め寄せてきたのですか」
 王は答えた。「師よ、コーサラ国を侵略する国などありはしません。この兵士たちは、アングリマーラという殺人鬼を捕らえるために召集したのです。とんでもなく危険な男で、これまで誰もひっ捕らえて裁きの場に引きずりだすことができなかった。そやつをほんの二週間ほど前、城下で見かけたというので、国民は毎日恐れおののいて暮らしておるのです」
 ブッダは言った。「アングリマーラがそれほど凶悪な男だというのは本当ですか」
 王が言った。「アングリマーラほど危険な男はおりませんぞ。捕らえて処刑するまで決して安心できない」
 ブッダが訊ねた。「もしアングリマーラが悔い改めて二度と人殺しをしないと誓いましたら、もし比丘の誓いを立てて、すべての命あるものを敬うことにしたら、それでも捕らえて処刑する必要がございますか」
 「もしアングリマーラがあなたの弟子となって、不殺生の戒律を守り、比丘の純潔で無害な生活をするというのであれば、私にとってこのうえない幸福でしょうな。命を救って放免してやるだけでなく、法衣でも、食料でも、薬でも、何でも与えてやりますよ。だが、そんなことが起こるとは、とうてい考えられません」
 ブッダは自分のうしろに立っていたアヒンサカーのほうを指さした。「陛下、この修行者こそそのアングリマーラでございます。すでに受戒して比丘となり、この二週間ですっかり生まれ変わっております」
 パセーナディ王は、あの極悪非道の殺人鬼が自分のすぐそばに立っていると知って震えあがった。

(p.252 l.1-p.256 l.19)

わたしたちの真の姿

 2001年9月11日、4機の飛行機がハイジャックされ、2機がニューヨーク世界貿易センターの二つのビルに突っ込み、1機が国防省に、あと1機が墜落しました。救助に入った消防士、警察官も多数亡くなりました。わたしの友人のひとりは、ツインタワー南棟に勤めていて、目前で北棟に飛行機が激突するのを目撃したあと、両方の靴と、眼鏡と、携帯電話を落としながら逃げましたが、しばらく社会復帰が難しい心の状態になりました。彼は、オフィスの窓際で、北棟を目前に眺めながら、その北棟に勤める友人と、電話で話していたのです。その電話の最中に、その友人のオフィスに飛行機が激突しました。事件後も、空気中に散った塵の中には化学的毒素、水銀などが含まれ、多くの人々がそのために死亡、発病しています。
 ニューヨークでは、誰もがこの事件に巻き込まれたと感じているのではないでしょうか。重くぎざぎざした波動が、マンハッタン島を包み込んでしまったようでした。同時に、多くの心がはっと目覚めました。まどろんでいた心が、いっせいに目覚め、突如、ニューヨークは新しい時代を迎えた、と言っても過言ではありませんでした。大きな衝撃というものは、つねにこのような二極をもっているようです。
 事件5日後の深夜、わたしはビル崩壊の現場を訪ねるという機会を得ました。マンハッタンのダウンタウン全域を覆いつくしていた塵は、ほとんど姿を消していましたが、南へ下ると、きつい化学製品の臭いが立ち込めていて、ときどき息苦しくなりました。現場に行き着くまでに、いくつもの検問所を通ります。そのつど、身分証明書を見せます。ボランティア団体やブースや、動物専門の救急所を通っていきます。動物も、もうずいぶん死んでいました。ツインタワー近くのトライベッカに住んでいる友人のチワワは、散歩中に”被爆して”2日後に死にました。塵に含まれる水銀などの毒素に、小さな生命は、ひとたまりもないのです。
 その毒素の中心、ビルの残骸でできた原野は、形をなくした建物に囲まれていました。
 まるで巨大な映画撮影セットのように、いくつもの光度の高いライトに、煌々と照らされていました。残骸は、きらきら、またはぬめぬめと光っています。ところどころ、地の底から煙が立ち昇っている箇所があり、ライトが、その細い煙が周囲に残ったビルより高く伸びていく様子を映し出していました。
 生存者を探し出す作業が行われていました。
 人を乗せたクレーンをゆっくりと動かし、下ろしていって、残骸の隙間から地下深くにレーダーを垂らす。生きている人がそこにいれば、レーダーに反応がでる。出なければ、ゆっくりクレーンを上げていき、位置を少しずらし、またゆっくり下ろしていき、レーダーを垂らす。その繰り返しです。非常にまどろっこしい、のろのろとした作業です。
 生きている人は、ひとりも、いない。
 その現場に立った瞬間に、わかりました。
 五感から来るものではない、疑いようのない確信というものがあります。直観や第六感という以上に、わたしにはわかる、わたしは知っている、というゆるぎない感覚です。そのときに生存者はいないとわかったのも、そのような感覚でした。
 理由も、はっきりしていました。
 その原野が”あまりにも平和なエネルギーに満たされていた”からです。
 世界中のあちこちにある、強く神聖なエネルギーの場所のいくつかを訪ねたことがありますが、このトライベッカに出現した原野に比する密度のエネルギーを感じた経験は、今のところ思い出せません。
 その原野を包み込んでいるエネルギーは、文字どおり、この世のものとは思えないほど澄みわたり、強く、気高く、優美でした。そして、事実、それは、この世のものではなかったのです。
 ああ、人は、肉体から抜けると、これほどまでの平和な、自由な、魂に戻るのか、と、思いました。死者は、このうえなくやさしく、やわらかく、伸び伸びしたエネルギーそのものになって、わたしたち地上で生きる者を、包み込んでくれているようでした。
 原野の中心で、苦悩のエネルギーは感じられませんでした。だからまだ生きて苦しんでいる者はここには皆無だとわかったのです(実際には、生き残った猫が1匹いました。3日目に雨が降り、残骸の山の底に水たまりができたため、その水で生き延びたと聞きました)。
 身体から離れた魂は、これほどまっすぐに、純粋な原形へと、平和というエネルギーへと舞い戻っていくのかと、これがわたしたちの真の姿なのかと、今でも振り返るたび手を合わせずにいられません。そしてこの思いは、わたしの宇宙観、死生観を支えてくれるいちばんの柱になっています。
 死者(地上から見れば)の生前の姿や思い、死にざまなどを、残されたわたしたちはあれこれと考えます。無念さ、恐怖、激痛、悲嘆、怨念、それらの片鱗を探します。
 けれども、死者たちは、例外なく、死にざまや、生前のあれこれにまったく影響されず、完璧な穏やかさに、いっさいの中に、戻っていくのに違いないと、わたしは知らされたと思っています。
 マンハッタンの貿易センターから世界中に波紋が及んだ驚きと苦悩、苦痛の、苦悶の、その中心には、圧倒的な平和があったのです。
 死者は、わたしたちの慰めを必要としていません。死者は、わたしたちを励まし、快復を助けてくれています。快復を信じて、穏やかに待っていてくれています。死者は、わたしたちの呼びかけを待っています。わたしたちの心が、やがて愛に還っていくことを信頼して見守っています。だから、わたしたちは、死者の愛に応えなければならないのではないでしょうか。それが、快復の力の源だからです。
 そして、その後、さらにわたしが驚かされたのは、実際、わたしの周囲の大勢の人たちが、快復の力を得て、再生しているということでした。
 家族をはじめ、身近な人を亡くした人、トラウマに苛まれる人、ビジネスを失った人、たくさんの物語、多くの慟哭がありました。その誰もが、見事に、癒しの道に戻ってきて、その道をしっかり歩きはじめたのです。
 わたしたちは、苦しみに直面し、そこから快復するときに、パワフルな、勢いある力を、際限なく発揮するようです。
 それは実のところ、最初から見えていました。身近な方をなくされた方々は、身体から生命力の最後の一滴まで絞りとられてしまったような表情をなさっていましたが、それでも、その方々の心を、亡くなった方の愛がやさしく包み込んでいて、気づいてもらうのを待っているというふうだったのです。
 コンクリートで固められたグラウンド・ゼロを訪ねた人たちは、悲惨さ、無惨さを口にしますが、私自身は、5日目の原野の印象と同様、やはり絶対的な平和をいつも感じていました。喉が締めつけられるような重いエネルギーは、死者からではなく、訪れる人たちから、残された者たちから発せられているものだと受け取りました。
 死者は平和そのものとなる。残された者は快復の力を与えられる。
 これは、楽観主義のものの見方ではなく、わたし自身が経験した事実であり、快復期にある者としての責任の問題だと思っています。
 人は、死んで、世界から消えていくのではありません。
 彼らは、地上に残された者の力の源であると同時に、生命とは、かくも平和なものなのだということを教えてくれる存在だと、わたしは教えてもらったと受け止めています。
 立て続けに悲しい事件が起こるとき、災害が次から次へと押し寄せてくるとき、それが天災にせよ人災にせよ、そのためにわたしたちの心が弱まるのではなく、心が弱まっているわたしたち、力の源から遠ざかっている社会に、快復の機会を与えてくれ、力を取り戻す手助けをしてくれるために、それらが起こるのです。
 懺悔しなければならないのは、他でもない、この自分であるということを思い出す勇気をもちたいものです。死者に感謝し敬意を払うことによって、そして、残った者たちがいたわり合い、支え合うことによって。
 「9.11が人生を変えた」というニューヨーカーが大勢います。あの日以降、”一筋縄ではいかないことにかけては世界一”と皮肉を言われるニューヨーカーが、ただひたすら、誰彼の心を受け止め、共に感じるために、心を開いたのです。
 それほどまでの”問題”が起こらなければ、オープンに人を受け入れ、癒しの道にとどまるということをしなかったことを、わたしたちひとりひとりが認めなくてはならないと思っています。平和な日のはじまり、寝室の窓にやさしく朝陽が射しかかり、緑の茂りが光を照り返して輝くのを見ながら、ああこうして死者たちは、その反省を思い出させてくれているのだなと感じます。

 (p.22 l.10-p.30 l.7)

神中心か人間中心か

 宗教に関して、西洋人は、「神中心(英:theocentric)」に考えますが、東洋人は「人間中心(英:anthropocentric)」に考えることにあります。東洋では最終的には人間を中心に神仏を捉えていると考えられます。

 中国でも、日本でも、自然または神はもともと人間と同じだとみるのが一般的な考えかたであって、東洋人の世界観の特色と言ってもいいだろう。〔中略〕このような考え方は、西洋人が神を世界の創造者とみて、人間とのあいだに厳格な一線を引くのとは、基本的に違っている。

 信愛ヨーガはその一つの例です。仏教全般にも、教学では人間の心が焦点となります。たとえば、空海が好んだ『大乗起信論』の一心概念において二つの心が描かれています。一つは純粋な心(真如心)で、もう一つは業の心(生滅心)です。菩薩との出会い、修行の功徳、苦しみの経験などによってその純粋な心は業深い心を浄化していきます(薫習;くんじゅう)。仏は心の外ではなく、心の中にあると考えています。唯識論的です。これは聖アウグスチヌスの経験とよく似ています。彼はまずマニ教とでした。彼は九年も善い神と悪い神との戦いを信じましたが、ある日その戦いは自分の心の中の問題だと悟りました。モハメドももっとも大きなジハード(宗教戦争)は自分との戦いだと強調しました。キリスト者は仏教の見解を否定するどころか、その見解を尊重し、その真理(神の光)を理解しようとするべきでしょう。
 また、ヒンドゥー教から始まった唯識論の背景もあります。この世は私の心に存在しているのか、それとも私の外に存在しているのかという議論です。西洋哲学では同じような問題は神に関係します。ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)は「神が死んだ」という説を言い出しましたが、その後一人の学生は黒板に「ニーチェが死んだ」と書いてその下に「神」とサインをしたそうです。

 (p.246 l.12-p.247 l.12)

空の心

 人間はときどき自分の人生が行き詰った感じがして、もうこれからどこに行けばよいのか分からない状態になることがあります。何のために生きているのか、私はいったい誰なのか、何をしたいのか、まったく分からなくなることがあります。
 皆このような空経験があります。人はこのような経験に遭遇して自殺を図ったり、麻薬などにはしりやすいのです。しかし、そのときに忍耐をもって、祈りと瞑想によってその苦の経験と戦えば、ある日その戦いによって真の空、真の自分、召出し、天職を見出します。釈尊とイエスはその道を分かりやすい形(四門・四旬節)で示し、空海も真言修行を通して苦の道から救われました。
 大乗仏教では、大きな我(大我)が生まれるために、行者は自分の小さな我を砕かなければなりません(無我)。私の考えでは、それはイエスの教えとあまり変わりません。方法だけが違います。仏教では自分の我をまず心で悟ることを求めます。そのために、行者は懸命に瞑想、三密行、修行などを行います。それに対して、キリスト者は隣人愛によって自分の自己中心的な精神に目覚め、それを徹底的になくすために召し出しを捜し求めるようになります。最終的には、イエスと同じように、心から「他人のために生きる人」(ディートリッヒ・ボンヘッファー)となります。

 大乗仏教で考える「空」の意味は否定的ではなく、むしろ、肯定的です。人を含めて、すべてのものには個独自に限定される保有性はないという考えの裏には、すべてのものがつながっているという意味があります。それは大乗仏教の「縁起説」です。すべてのものがつながっているので、相手に苦を与えたら、その苦は自分に戻ることになります。そこには仏教の業説(カルマ)がみえます。真言密教はその頂点に立ち、大日如来の智慧と慈悲は空の心を象徴します。すべてのものは網のようにつながっています(重々帝網;じゅうじゅうたいもう)。その網はヒンドゥー教のヴェーダ(Veda)神話の主神であるインドラ(雷・雨を司る神)の象徴です。最澄は大乗菩薩戒の根本聖典『梵網経』(鳩摩羅什の訳とされる五世紀頃成立した偽経)を重視し、南部の原始仏教に対し、この経に基づいて戒壇を設立しました。
 人は縁起説を理解することによって苦を少なくすることができます。たとえば、日本語で「ご縁があります」という美しい表現があります。その縁を大事にすれば、人生の苦しみが軽減されます。その縁を経験して結婚することになり、教会での結婚式を望むカップルもあります。どこかで偶然に二人が巡り会ったが、それはただの偶然ではなくて、縁があったからという結論です。ご縁の考え方はキリスト教では神やイエスによるものと信じ、「摂理(英:Divine Providence)」、「聖霊の導き(英:the work of the Holy Spirit)」、または「神の加護(英:divine protection)」と名づけられています。なお、梵天(梵:Brahma)はインド哲学における万有の原理ブラフマン(梵)を神格したもので、梵網は「神がすべてにおいてすべとなれる(ラ:In Omnibus Omnia)」というキリスト教思想と類似しています(Ⅰコリント 15:28)。

 (p.222 l.12-p.223 l.6  p.223 l.13-p.224 l.10)

四無量心(仏菩薩の慈悲を表わす心)

 「四無量心(しむりょうしん)」は、楽を与える慈無量心、苦を抜く悲無量心、万人の喜びを自分の喜びとする喜無量心、および、上記の三心にとらわれず、あらゆる怨みを捨てる捨無量心の総称です。最後の無量心は「平無量心」とも呼ばれます。その四つの無量心とも仏菩薩の慈悲を表わす心なので、「四梵行」とも呼ばれます。真言密教でも、この四つの無量心は基本的にひとつの慈悲深い菩提心を指します。したがって、四無量心観とは仏と菩薩の慈悲を観想するための方法です。
 真言密教行者の四無量心観の目的は大日如来のような広い心をもつことです。つまり、四無量心観は即身成仏のために重要な観法です。
 仏教の「無量心」は英訳でgreat mindと翻訳されていますが、キリスト者のためにはgreat heartと翻訳する方がわかりやすいのです。イエスはこのような広い心を常にもちましたので、キリスト者はそれを学ぶことにしています。カトリック教会の司祭も常にイエスの四無量心を観想し、司牧の中でもつべきだと考えています。以下では私の経験を分かち合いたいと思います。

 ある日、一人の婦人が教会を訪ねてきました。彼女は教会のホームページを見て楽しそうな共同体だと感じたと言いました。そして、その方は自分の抱えている悩みを話しました。夫との離婚・乳癌・息子の家庭内暴力などの悲しい話でした。私はその婦人を慈しんで、教会はこの方のために何ができるのかと考えました。そこで、教会の共同体に受け入れるように教会入門講座に参加することを薦めました。そうすると、信者の生き方や考え方を学ばせることも、また自分の悩みを打ち明けることもできるのではないかと考えました(慈無量心)。
 その後、婦人は少しずつ悩みを打ち明けて、私は余計に悲しくなりましたが、その苦しみの裏にある寂しさ、身体への執着、子どもの教育への執着なども見えてきました。そこで、いろいろなたとえ話を通して、自分の「業」を悟らせるために努力しました。子どもが家庭内で大声や乱暴な言葉を発したり、家の中のものを壊す、などの行いをするのは自然なことではないと私は言いました。両親の教育がどこか足りないところや間違っているところがあることによる問題ではないかという疑問をもっていたからです。さらに、話を聞くと、婦人は息子に医者になってほしかったけれど、本人は散髪屋の仕事に興味をもっていたそうです。また、子どもがいつも破れたジーンズで出かけることがいやだと言いました。そこで、婦人に息子の生き方と息子が勉強したいことを尊重するように助言しました(悲無量心)。
 ある日、その婦人は教会に来て、「神父さん、息子の暴力が終わりました。奇跡だ!」と喜んで話しました。それは奇跡ではなく、自分の執着がなくなったので、息子はもう一度親からの愛を感じるようになった出来事だったと私は説明しました。同じように、健康への執着や寂しさに関しても助言しました。婦人はその助言に従い、少しずつ元気を取り戻し、教会の共同体も気に入って洗礼を受けることにしました。こうして、婦人は立派な信者になったことは教会の皆の大きな喜びでした(喜無量心)。
 洗礼を受けたその方は、いま神の愛で生きていますから、私も安心しました。なぜかというと、その方はこれから何があっても神の愛で生き続けられるからです。その後、私は東京に転勤となりました。もう少しその婦人の行く道を見守りたかったのですが、それは一つの執着であったかもしれません。そういうときこそ司祭として「断舎離(だんしゃり)」の精神が大切で、他の悩みを持っている次の人のために助かった人を”捨てる”べきです。もちろん、心の中でその人を捨てた訳ではありませんが、その方のためにも自分のためにもそれぞれが選んだ道を歩み続けるのは理想的です(捨無量心)。
 その婦人は乳癌の手術を受けましたが、術後のケアが不十分だと言い、いつもつらい思いをしていましたが、しばらくして、シンガポールまで出かけてケアについて学び、今はその天職に就いています。そのような仕事は生活費を得るだけでなく、心の栄養にもなりますし、自分の聖化のためにも有意義な仕事(召命)でしょう。
 
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即身成仏、現世において肉身(生身)のままで仏(菩薩)のように生きる

 即身成仏思想は真言密教の根本教理の一つです。「即身成仏」とは、人間が本来もっている清浄な「仏性(ぶっしょう)」に気づくことです。真言密教では、成仏することは人々の救いのために大日如来になるということです。即身成仏の意味は現世において肉身(生身)のままで仏(菩薩)のように生きるということです。

 空海の生きていた時代には、三劫という長い年月をかけて輪廻を繰り返して成仏に至ると考えられていましたが、空海は自身の神秘主義的な経験を経て、生きてる間に仏に成ることもできるのではないかと考えるようになったに違いありません。つまり、生きている間に解脱を得て、他人の救済のために生きることができるのは即身成仏の思想の基本であるからです。

 他人の救いを願う「菩薩(梵:bodhisattva)」は大乗仏教の理想の人間像です。しかし、一般の修行者も菩薩とみなされます。つまり、菩薩という言葉の意味、すなわち成仏するために悟りを求める人々と、悟りをそなえた人々との意味があります。(中略)
 菩薩の二面の共通点は修行で得た功徳を「廻向(えこう)(梵:parinama)」することです。前者は救いのための「往生廻向(おうじょうえこう)」(仏になること)と、後者は相手の救いのための「還相廻向(げんそうえこう)」(菩薩になること)をおこないます。両者の廻向は基本的に不二です。つまり、菩薩は自分の成仏のために修行しながら他人の救済活動を行うものとされます。そして、菩薩の徳は慈悲と自己犠牲です。そこで、菩薩は涅槃の功徳さえ皆に廻向します(不住涅槃、無処所)。
 その二面性は菩薩が用いる方法にも反映します。衆生済度に専念する菩薩は衆生を教化するために「方便(梵:upaya)」を用います(下化衆生;げけしゅじょう、菩薩になること)。そして、大乗仏教の修行者は解脱を得るためにその方便に従います(上求菩提;じょうぐぼだい、仏になること)。この方便思想においても不二思想があります。行者が実行する方便は、人を救うために使える方便であることも多いです。たとえば、アルコール依存症を乗り越えた人は、自分の体験した方法で同病に苦しむ他者も救いたいと望むようになります。
 手段は何でもよいです。人を救うための手段として法則はなく時には嘘も必要で有効です。「嘘も方便」という表現はそれに基づいています。したがって、方便とは、衆生を教え導く巧みな手段です。その方法は、仏の説法の基本です。僧侶も相手のレベルに合わせて法を説くべきです(対機説法)。たとえば、子どものためには、子どものレベルに合わせて話すことが必要です。人を見て法を説くのが方便です。

 大乗仏教では「成仏」と「方便」という思想の他に「如来蔵」(一切衆生に内在する仏となりうる可能性)という考え方も生まれてきました。人は皆すでに救われており、仏の心(仏心、如来蔵、仏性)をもっていますが、人はそれをまだ悟っていないという考え方です。空海は如来蔵思想を重視し、成仏に至る手段を、「三密行」と定め、皆が仏の心を肉身のままで体験し、開顕できると考えました(即身成仏思想)。

 (P.150 l.4-6 l.9-12 l.24-p.152 l.9 p.152 l.11-14)