理屈ぬき、善悪をも言わぬ、無意味、無分別、超論理

 自然法爾(じねんほうに)の文を読んでみます。間にときどき私注を入れさしていただきます。

 「自然といふは自は、自(おのづから)といふことで、行者の計らひにあらず」―無量寿経を読んでみても。所々に自然、自然ということがでてくる。自分を標準にした計較分別でないということなのです。

 「然といふは、然(しか)らむといふことばなり」―すなわち自分の分別で測度したことでなくして、向うから、いわゆる客観的に、あるいは絶対的にそうなってくるんだということです。

 「然らしむといふは、行者の計らひにあらず、如来の誓にてあるが故に法爾と云ふ」―それで法爾というは如来のお誓いなるがゆえに、法爾ということになるのだが、これが真宗の特色であると思うのです。真宗の信仰は自然法爾になるのであって、自生本来清浄の所である。無一物の所だが、そこに山あり、河あり、その山河大地が、すなわち如来の誓願に外ならぬのである。そしてこの誓いによるという文字が使われるところに、浄土宗あるいは真宗の特色がでていると思います。誓いということ、それをもう一遍言いかえせば、意志ということです、仏の意志のことです。仏の意志と言ってもよし、また私の言葉で言えば、祈りと言っていいのです。誓いは祈りである。どの宗教でも、みな祈りがなければ成り立たない。無心の中から祈りが出る、無縁の大悲と言うのであります。

 「このお誓なりける故に、大凡そ行者の計らひのなきをもつて、この法の徳の故に、然らしむと云ふなり。すべての人のはじめて計らはざるなり」―法の中に自然にその徳が備わっているので、こっちの方でどうする、こうすると、案配云為することなくして、山高く水長く、百花春至為誰開く、自然にそう備わっているので、頭の毛一筋も、こちらの意根下に向って、模索し得るところではないのである。

 「この故に義なきを義とすと知るべし」―義というは論理の世界、意味の世界を言うのです。宗教の天地は理屈抜きである、善悪をも言わぬ世界である。無意味で、無分別で、超論理だから、宗教には義ということはいえないのである、無義でなくてはならぬ。すなわち自然という、もとから自ら然らしめるというのであるから、本来の面目露堂々ということになるのです。南北東西、烏飛兎走。

 それから「弥陀のお誓の、もとより行者の計らひにあらずして、南無阿弥陀仏と頼ませ給ひて、迎へんと計はせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんとも思はぬを、自然とは申すぞと、ききて候」―行者の方にはさらに計らいというものがなくて、みな向うから出て来る、向うの方の神力が加わっているのである、そういう訳なのです。みんな仏の誓いであります。天地の間には何か一つの意志というものが働いていると見なくてはならぬのです。その意志というものはこちらの働きで働くのでなくして、こちらはかえってその大きな意志の中にはいっていって、そうしてそれと一緒に働く時に、本当にわれらの努力と信じられているところのものの意味がわかる。弥陀の大意志は人間の小意志と大いにその趣を異にしているので、人間的に見れば義がないのです。その義のないところがすなわちその義なのです。

(p.117、l.14-p.119、l.14)