空の心

 人間はときどき自分の人生が行き詰った感じがして、もうこれからどこに行けばよいのか分からない状態になることがあります。何のために生きているのか、私はいったい誰なのか、何をしたいのか、まったく分からなくなることがあります。
 皆このような空経験があります。人はこのような経験に遭遇して自殺を図ったり、麻薬などにはしりやすいのです。しかし、そのときに忍耐をもって、祈りと瞑想によってその苦の経験と戦えば、ある日その戦いによって真の空、真の自分、召出し、天職を見出します。釈尊とイエスはその道を分かりやすい形(四門・四旬節)で示し、空海も真言修行を通して苦の道から救われました。
 大乗仏教では、大きな我(大我)が生まれるために、行者は自分の小さな我を砕かなければなりません(無我)。私の考えでは、それはイエスの教えとあまり変わりません。方法だけが違います。仏教では自分の我をまず心で悟ることを求めます。そのために、行者は懸命に瞑想、三密行、修行などを行います。それに対して、キリスト者は隣人愛によって自分の自己中心的な精神に目覚め、それを徹底的になくすために召し出しを捜し求めるようになります。最終的には、イエスと同じように、心から「他人のために生きる人」(ディートリッヒ・ボンヘッファー)となります。

 大乗仏教で考える「空」の意味は否定的ではなく、むしろ、肯定的です。人を含めて、すべてのものには個独自に限定される保有性はないという考えの裏には、すべてのものがつながっているという意味があります。それは大乗仏教の「縁起説」です。すべてのものがつながっているので、相手に苦を与えたら、その苦は自分に戻ることになります。そこには仏教の業説(カルマ)がみえます。真言密教はその頂点に立ち、大日如来の智慧と慈悲は空の心を象徴します。すべてのものは網のようにつながっています(重々帝網;じゅうじゅうたいもう)。その網はヒンドゥー教のヴェーダ(Veda)神話の主神であるインドラ(雷・雨を司る神)の象徴です。最澄は大乗菩薩戒の根本聖典『梵網経』(鳩摩羅什の訳とされる五世紀頃成立した偽経)を重視し、南部の原始仏教に対し、この経に基づいて戒壇を設立しました。
 人は縁起説を理解することによって苦を少なくすることができます。たとえば、日本語で「ご縁があります」という美しい表現があります。その縁を大事にすれば、人生の苦しみが軽減されます。その縁を経験して結婚することになり、教会での結婚式を望むカップルもあります。どこかで偶然に二人が巡り会ったが、それはただの偶然ではなくて、縁があったからという結論です。ご縁の考え方はキリスト教では神やイエスによるものと信じ、「摂理(英:Divine Providence)」、「聖霊の導き(英:the work of the Holy Spirit)」、または「神の加護(英:divine protection)」と名づけられています。なお、梵天(梵:Brahma)はインド哲学における万有の原理ブラフマン(梵)を神格したもので、梵網は「神がすべてにおいてすべとなれる(ラ:In Omnibus Omnia)」というキリスト教思想と類似しています(Ⅰコリント 15:28)。

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