人間も自身の次元よりも低い次元に投影されたならば、閉じられた体系になる

異なる現象が、それら自身の次元からより低い次元に投影されると、そこで描き出される像は多義的になってしまうのです。(図1)
(中略)
水平面に投げかける影は、交換のできる三つの円として描き出しています。私たちは、影からは、それを投げかけているもの、つまりその上にあるものが円柱か円錐かそれとも球なのかを推測することはできません。(図2)
(中略)





人間の統一性、つまり体と心という多様性にもかかわらず統一的であることが、生物学的もしくは心理学的次元では見出せないのは当然なのであり、人間が第一に投影される精神論的次元で探し出さなければならないのです。
(中略)
人間もまた自身の次元よりも低い次元に投影されたならば、刺激に対する生理的反射であれ、心理学的反作用や反応であれ、閉じられた体系になると思われます。
(中略)
人間存在の自己超越的性質のゆえに、人間であることは常に他の大切な何かあるいは大切な誰かに対して方向づけられ志向されている、(中略)低い次元の閉鎖性は高い次元の開放性、すなわち円筒状のカップの開放性つまり人間の開放性と両立しうるのです。(p.44、l.2-p.47、l.14)


具体的な例として、第一の円形の影は、聴覚上の幻聴の症状を伴った統合失調症の事例を表すと想定します。他方、第二の円形の影は、ジャンヌ・ダルクを表すと想定します。

精神分析の観点からは、その聖人は統合失調症の症例として診断されるべきであったことは疑いのない事実です。精神分析の基準の枠組に話を限定すれば、ジャンヌ・ダルクは「たんなる」統合失調症患者にすぎません。彼女の統合失調症患者を超えた部分は精神医学的次元内では認識できるものではありません。

ひとたびジャンヌ・ダルクについて精神論的次元に観点を移しさらには彼女の神学的重要性と歴史的重要性を観察する段階に至るとすれば、即座にジャンヌ・ダルクは統合失調症患者以上のものになるということが判明します。精神医学の次元における彼女の統合失調症患者であるという事実は、他の次元における彼女の重要性を少しも低下させるというものではありません。その逆も同じことです。

もし彼女が聖人であるということを私たちが当然と考えてみたとしても、このことは彼女が同じく統合失調症患者であったという事実を変えることはできないのです。(p.53、l.3-l.15)


もう一つの事例として、私が住んでいたウィーンの地区において数年前発生した事件を挙げましょう。

タバコ屋の店主が不良によって襲撃され、急いで彼女は夫のフランツを呼びました。店舗はカーテンで仕切られ、不良はフランツが即座にカーテンの背後から出てくると予想しました。犯人は逃亡しそして逮捕されました。

自然のなりゆきだとお思いですか。しかし、実際は、フランツは二週間も前に死亡していて、彼女は救いを求めて神の御手の介入を夫に嘆願し、天(神)への祈りを捧げていたのでした。さて、自然なこのなりゆきをどのように解釈しようとするかについては私たちのうちの一人ひとりに完全に責任があるのです。

つまり、そのことが不良の側の誤解という、言うなれば心理学的な観点にあるのか、祈りを受け入れる天(神)の観点にあるのか、ということです。わたしとしては、仮に天(神)のようなものが存在しているとして、さらには天(神)はいつでも祈りを受容するとするならば、この自然ななりゆきの背後にはこうしたことが隠されているのだと確信しているのです。(p.54、l.11-p.55、l.7)