宗教に関して、西洋人は、「神中心(英:theocentric)」に考えますが、東洋人は「人間中心(英:anthropocentric)」に考えることにあります。東洋では最終的には人間を中心に神仏を捉えていると考えられます。
中国でも、日本でも、自然または神はもともと人間と同じだとみるのが一般的な考えかたであって、東洋人の世界観の特色と言ってもいいだろう。〔中略〕このような考え方は、西洋人が神を世界の創造者とみて、人間とのあいだに厳格な一線を引くのとは、基本的に違っている。
信愛ヨーガはその一つの例です。仏教全般にも、教学では人間の心が焦点となります。たとえば、空海が好んだ『大乗起信論』の一心概念において二つの心が描かれています。一つは純粋な心(真如心)で、もう一つは業の心(生滅心)です。菩薩との出会い、修行の功徳、苦しみの経験などによってその純粋な心は業深い心を浄化していきます(薫習;くんじゅう)。仏は心の外ではなく、心の中にあると考えています。唯識論的です。これは聖アウグスチヌスの経験とよく似ています。彼はまずマニ教とでした。彼は九年も善い神と悪い神との戦いを信じましたが、ある日その戦いは自分の心の中の問題だと悟りました。モハメドももっとも大きなジハード(宗教戦争)は自分との戦いだと強調しました。キリスト者は仏教の見解を否定するどころか、その見解を尊重し、その真理(神の光)を理解しようとするべきでしょう。
また、ヒンドゥー教から始まった唯識論の背景もあります。この世は私の心に存在しているのか、それとも私の外に存在しているのかという議論です。西洋哲学では同じような問題は神に関係します。ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)は「神が死んだ」という説を言い出しましたが、その後一人の学生は黒板に「ニーチェが死んだ」と書いてその下に「神」とサインをしたそうです。
(p.246 l.12-p.247 l.12)
ラベル 『イエスと空海ー不二の世界ー』ペテロ・バーケルマンス(ナカニシヤ出版) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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空の心
人間はときどき自分の人生が行き詰った感じがして、もうこれからどこに行けばよいのか分からない状態になることがあります。何のために生きているのか、私はいったい誰なのか、何をしたいのか、まったく分からなくなることがあります。
皆このような空経験があります。人はこのような経験に遭遇して自殺を図ったり、麻薬などにはしりやすいのです。しかし、そのときに忍耐をもって、祈りと瞑想によってその苦の経験と戦えば、ある日その戦いによって真の空、真の自分、召出し、天職を見出します。釈尊とイエスはその道を分かりやすい形(四門・四旬節)で示し、空海も真言修行を通して苦の道から救われました。
大乗仏教では、大きな我(大我)が生まれるために、行者は自分の小さな我を砕かなければなりません(無我)。私の考えでは、それはイエスの教えとあまり変わりません。方法だけが違います。仏教では自分の我をまず心で悟ることを求めます。そのために、行者は懸命に瞑想、三密行、修行などを行います。それに対して、キリスト者は隣人愛によって自分の自己中心的な精神に目覚め、それを徹底的になくすために召し出しを捜し求めるようになります。最終的には、イエスと同じように、心から「他人のために生きる人」(ディートリッヒ・ボンヘッファー)となります。
大乗仏教で考える「空」の意味は否定的ではなく、むしろ、肯定的です。人を含めて、すべてのものには個独自に限定される保有性はないという考えの裏には、すべてのものがつながっているという意味があります。それは大乗仏教の「縁起説」です。すべてのものがつながっているので、相手に苦を与えたら、その苦は自分に戻ることになります。そこには仏教の業説(カルマ)がみえます。真言密教はその頂点に立ち、大日如来の智慧と慈悲は空の心を象徴します。すべてのものは網のようにつながっています(重々帝網;じゅうじゅうたいもう)。その網はヒンドゥー教のヴェーダ(Veda)神話の主神であるインドラ(雷・雨を司る神)の象徴です。最澄は大乗菩薩戒の根本聖典『梵網経』(鳩摩羅什の訳とされる五世紀頃成立した偽経)を重視し、南部の原始仏教に対し、この経に基づいて戒壇を設立しました。
人は縁起説を理解することによって苦を少なくすることができます。たとえば、日本語で「ご縁があります」という美しい表現があります。その縁を大事にすれば、人生の苦しみが軽減されます。その縁を経験して結婚することになり、教会での結婚式を望むカップルもあります。どこかで偶然に二人が巡り会ったが、それはただの偶然ではなくて、縁があったからという結論です。ご縁の考え方はキリスト教では神やイエスによるものと信じ、「摂理(英:Divine Providence)」、「聖霊の導き(英:the work of the Holy Spirit)」、または「神の加護(英:divine protection)」と名づけられています。なお、梵天(梵:Brahma)はインド哲学における万有の原理ブラフマン(梵)を神格したもので、梵網は「神がすべてにおいてすべとなれる(ラ:In Omnibus Omnia)」というキリスト教思想と類似しています(Ⅰコリント 15:28)。
(p.222 l.12-p.223 l.6 p.223 l.13-p.224 l.10)
皆このような空経験があります。人はこのような経験に遭遇して自殺を図ったり、麻薬などにはしりやすいのです。しかし、そのときに忍耐をもって、祈りと瞑想によってその苦の経験と戦えば、ある日その戦いによって真の空、真の自分、召出し、天職を見出します。釈尊とイエスはその道を分かりやすい形(四門・四旬節)で示し、空海も真言修行を通して苦の道から救われました。
大乗仏教では、大きな我(大我)が生まれるために、行者は自分の小さな我を砕かなければなりません(無我)。私の考えでは、それはイエスの教えとあまり変わりません。方法だけが違います。仏教では自分の我をまず心で悟ることを求めます。そのために、行者は懸命に瞑想、三密行、修行などを行います。それに対して、キリスト者は隣人愛によって自分の自己中心的な精神に目覚め、それを徹底的になくすために召し出しを捜し求めるようになります。最終的には、イエスと同じように、心から「他人のために生きる人」(ディートリッヒ・ボンヘッファー)となります。
大乗仏教で考える「空」の意味は否定的ではなく、むしろ、肯定的です。人を含めて、すべてのものには個独自に限定される保有性はないという考えの裏には、すべてのものがつながっているという意味があります。それは大乗仏教の「縁起説」です。すべてのものがつながっているので、相手に苦を与えたら、その苦は自分に戻ることになります。そこには仏教の業説(カルマ)がみえます。真言密教はその頂点に立ち、大日如来の智慧と慈悲は空の心を象徴します。すべてのものは網のようにつながっています(重々帝網;じゅうじゅうたいもう)。その網はヒンドゥー教のヴェーダ(Veda)神話の主神であるインドラ(雷・雨を司る神)の象徴です。最澄は大乗菩薩戒の根本聖典『梵網経』(鳩摩羅什の訳とされる五世紀頃成立した偽経)を重視し、南部の原始仏教に対し、この経に基づいて戒壇を設立しました。
人は縁起説を理解することによって苦を少なくすることができます。たとえば、日本語で「ご縁があります」という美しい表現があります。その縁を大事にすれば、人生の苦しみが軽減されます。その縁を経験して結婚することになり、教会での結婚式を望むカップルもあります。どこかで偶然に二人が巡り会ったが、それはただの偶然ではなくて、縁があったからという結論です。ご縁の考え方はキリスト教では神やイエスによるものと信じ、「摂理(英:Divine Providence)」、「聖霊の導き(英:the work of the Holy Spirit)」、または「神の加護(英:divine protection)」と名づけられています。なお、梵天(梵:Brahma)はインド哲学における万有の原理ブラフマン(梵)を神格したもので、梵網は「神がすべてにおいてすべとなれる(ラ:In Omnibus Omnia)」というキリスト教思想と類似しています(Ⅰコリント 15:28)。
(p.222 l.12-p.223 l.6 p.223 l.13-p.224 l.10)
四無量心(仏菩薩の慈悲を表わす心)
「四無量心(しむりょうしん)」は、楽を与える慈無量心、苦を抜く悲無量心、万人の喜びを自分の喜びとする喜無量心、および、上記の三心にとらわれず、あらゆる怨みを捨てる捨無量心の総称です。最後の無量心は「平無量心」とも呼ばれます。その四つの無量心とも仏菩薩の慈悲を表わす心なので、「四梵行」とも呼ばれます。真言密教でも、この四つの無量心は基本的にひとつの慈悲深い菩提心を指します。したがって、四無量心観とは仏と菩薩の慈悲を観想するための方法です。
真言密教行者の四無量心観の目的は大日如来のような広い心をもつことです。つまり、四無量心観は即身成仏のために重要な観法です。
仏教の「無量心」は英訳でgreat mindと翻訳されていますが、キリスト者のためにはgreat heartと翻訳する方がわかりやすいのです。イエスはこのような広い心を常にもちましたので、キリスト者はそれを学ぶことにしています。カトリック教会の司祭も常にイエスの四無量心を観想し、司牧の中でもつべきだと考えています。以下では私の経験を分かち合いたいと思います。
ある日、一人の婦人が教会を訪ねてきました。彼女は教会のホームページを見て楽しそうな共同体だと感じたと言いました。そして、その方は自分の抱えている悩みを話しました。夫との離婚・乳癌・息子の家庭内暴力などの悲しい話でした。私はその婦人を慈しんで、教会はこの方のために何ができるのかと考えました。そこで、教会の共同体に受け入れるように教会入門講座に参加することを薦めました。そうすると、信者の生き方や考え方を学ばせることも、また自分の悩みを打ち明けることもできるのではないかと考えました(慈無量心)。
その後、婦人は少しずつ悩みを打ち明けて、私は余計に悲しくなりましたが、その苦しみの裏にある寂しさ、身体への執着、子どもの教育への執着なども見えてきました。そこで、いろいろなたとえ話を通して、自分の「業」を悟らせるために努力しました。子どもが家庭内で大声や乱暴な言葉を発したり、家の中のものを壊す、などの行いをするのは自然なことではないと私は言いました。両親の教育がどこか足りないところや間違っているところがあることによる問題ではないかという疑問をもっていたからです。さらに、話を聞くと、婦人は息子に医者になってほしかったけれど、本人は散髪屋の仕事に興味をもっていたそうです。また、子どもがいつも破れたジーンズで出かけることがいやだと言いました。そこで、婦人に息子の生き方と息子が勉強したいことを尊重するように助言しました(悲無量心)。
ある日、その婦人は教会に来て、「神父さん、息子の暴力が終わりました。奇跡だ!」と喜んで話しました。それは奇跡ではなく、自分の執着がなくなったので、息子はもう一度親からの愛を感じるようになった出来事だったと私は説明しました。同じように、健康への執着や寂しさに関しても助言しました。婦人はその助言に従い、少しずつ元気を取り戻し、教会の共同体も気に入って洗礼を受けることにしました。こうして、婦人は立派な信者になったことは教会の皆の大きな喜びでした(喜無量心)。
洗礼を受けたその方は、いま神の愛で生きていますから、私も安心しました。なぜかというと、その方はこれから何があっても神の愛で生き続けられるからです。その後、私は東京に転勤となりました。もう少しその婦人の行く道を見守りたかったのですが、それは一つの執着であったかもしれません。そういうときこそ司祭として「断舎離(だんしゃり)」の精神が大切で、他の悩みを持っている次の人のために助かった人を”捨てる”べきです。もちろん、心の中でその人を捨てた訳ではありませんが、その方のためにも自分のためにもそれぞれが選んだ道を歩み続けるのは理想的です(捨無量心)。
その婦人は乳癌の手術を受けましたが、術後のケアが不十分だと言い、いつもつらい思いをしていましたが、しばらくして、シンガポールまで出かけてケアについて学び、今はその天職に就いています。そのような仕事は生活費を得るだけでなく、心の栄養にもなりますし、自分の聖化のためにも有意義な仕事(召命)でしょう。
(p.198 l.13-p.199 l.7 p.200 l.1-p.201 l.10)
真言密教行者の四無量心観の目的は大日如来のような広い心をもつことです。つまり、四無量心観は即身成仏のために重要な観法です。
仏教の「無量心」は英訳でgreat mindと翻訳されていますが、キリスト者のためにはgreat heartと翻訳する方がわかりやすいのです。イエスはこのような広い心を常にもちましたので、キリスト者はそれを学ぶことにしています。カトリック教会の司祭も常にイエスの四無量心を観想し、司牧の中でもつべきだと考えています。以下では私の経験を分かち合いたいと思います。
ある日、一人の婦人が教会を訪ねてきました。彼女は教会のホームページを見て楽しそうな共同体だと感じたと言いました。そして、その方は自分の抱えている悩みを話しました。夫との離婚・乳癌・息子の家庭内暴力などの悲しい話でした。私はその婦人を慈しんで、教会はこの方のために何ができるのかと考えました。そこで、教会の共同体に受け入れるように教会入門講座に参加することを薦めました。そうすると、信者の生き方や考え方を学ばせることも、また自分の悩みを打ち明けることもできるのではないかと考えました(慈無量心)。
その後、婦人は少しずつ悩みを打ち明けて、私は余計に悲しくなりましたが、その苦しみの裏にある寂しさ、身体への執着、子どもの教育への執着なども見えてきました。そこで、いろいろなたとえ話を通して、自分の「業」を悟らせるために努力しました。子どもが家庭内で大声や乱暴な言葉を発したり、家の中のものを壊す、などの行いをするのは自然なことではないと私は言いました。両親の教育がどこか足りないところや間違っているところがあることによる問題ではないかという疑問をもっていたからです。さらに、話を聞くと、婦人は息子に医者になってほしかったけれど、本人は散髪屋の仕事に興味をもっていたそうです。また、子どもがいつも破れたジーンズで出かけることがいやだと言いました。そこで、婦人に息子の生き方と息子が勉強したいことを尊重するように助言しました(悲無量心)。
ある日、その婦人は教会に来て、「神父さん、息子の暴力が終わりました。奇跡だ!」と喜んで話しました。それは奇跡ではなく、自分の執着がなくなったので、息子はもう一度親からの愛を感じるようになった出来事だったと私は説明しました。同じように、健康への執着や寂しさに関しても助言しました。婦人はその助言に従い、少しずつ元気を取り戻し、教会の共同体も気に入って洗礼を受けることにしました。こうして、婦人は立派な信者になったことは教会の皆の大きな喜びでした(喜無量心)。
洗礼を受けたその方は、いま神の愛で生きていますから、私も安心しました。なぜかというと、その方はこれから何があっても神の愛で生き続けられるからです。その後、私は東京に転勤となりました。もう少しその婦人の行く道を見守りたかったのですが、それは一つの執着であったかもしれません。そういうときこそ司祭として「断舎離(だんしゃり)」の精神が大切で、他の悩みを持っている次の人のために助かった人を”捨てる”べきです。もちろん、心の中でその人を捨てた訳ではありませんが、その方のためにも自分のためにもそれぞれが選んだ道を歩み続けるのは理想的です(捨無量心)。
その婦人は乳癌の手術を受けましたが、術後のケアが不十分だと言い、いつもつらい思いをしていましたが、しばらくして、シンガポールまで出かけてケアについて学び、今はその天職に就いています。そのような仕事は生活費を得るだけでなく、心の栄養にもなりますし、自分の聖化のためにも有意義な仕事(召命)でしょう。
(p.198 l.13-p.199 l.7 p.200 l.1-p.201 l.10)
即身成仏、現世において肉身(生身)のままで仏(菩薩)のように生きる
即身成仏思想は真言密教の根本教理の一つです。「即身成仏」とは、人間が本来もっている清浄な「仏性(ぶっしょう)」に気づくことです。真言密教では、成仏することは人々の救いのために大日如来になるということです。即身成仏の意味は現世において肉身(生身)のままで仏(菩薩)のように生きるということです。
空海の生きていた時代には、三劫という長い年月をかけて輪廻を繰り返して成仏に至ると考えられていましたが、空海は自身の神秘主義的な経験を経て、生きてる間に仏に成ることもできるのではないかと考えるようになったに違いありません。つまり、生きている間に解脱を得て、他人の救済のために生きることができるのは即身成仏の思想の基本であるからです。
他人の救いを願う「菩薩(梵:bodhisattva)」は大乗仏教の理想の人間像です。しかし、一般の修行者も菩薩とみなされます。つまり、菩薩という言葉の意味、すなわち成仏するために悟りを求める人々と、悟りをそなえた人々との意味があります。(中略)
菩薩の二面の共通点は修行で得た功徳を「廻向(えこう)(梵:parinama)」することです。前者は救いのための「往生廻向(おうじょうえこう)」(仏になること)と、後者は相手の救いのための「還相廻向(げんそうえこう)」(菩薩になること)をおこないます。両者の廻向は基本的に不二です。つまり、菩薩は自分の成仏のために修行しながら他人の救済活動を行うものとされます。そして、菩薩の徳は慈悲と自己犠牲です。そこで、菩薩は涅槃の功徳さえ皆に廻向します(不住涅槃、無処所)。
その二面性は菩薩が用いる方法にも反映します。衆生済度に専念する菩薩は衆生を教化するために「方便(梵:upaya)」を用います(下化衆生;げけしゅじょう、菩薩になること)。そして、大乗仏教の修行者は解脱を得るためにその方便に従います(上求菩提;じょうぐぼだい、仏になること)。この方便思想においても不二思想があります。行者が実行する方便は、人を救うために使える方便であることも多いです。たとえば、アルコール依存症を乗り越えた人は、自分の体験した方法で同病に苦しむ他者も救いたいと望むようになります。
手段は何でもよいです。人を救うための手段として法則はなく時には嘘も必要で有効です。「嘘も方便」という表現はそれに基づいています。したがって、方便とは、衆生を教え導く巧みな手段です。その方法は、仏の説法の基本です。僧侶も相手のレベルに合わせて法を説くべきです(対機説法)。たとえば、子どものためには、子どものレベルに合わせて話すことが必要です。人を見て法を説くのが方便です。
大乗仏教では「成仏」と「方便」という思想の他に「如来蔵」(一切衆生に内在する仏となりうる可能性)という考え方も生まれてきました。人は皆すでに救われており、仏の心(仏心、如来蔵、仏性)をもっていますが、人はそれをまだ悟っていないという考え方です。空海は如来蔵思想を重視し、成仏に至る手段を、「三密行」と定め、皆が仏の心を肉身のままで体験し、開顕できると考えました(即身成仏思想)。
(P.150 l.4-6 l.9-12 l.24-p.152 l.9 p.152 l.11-14)
空海の生きていた時代には、三劫という長い年月をかけて輪廻を繰り返して成仏に至ると考えられていましたが、空海は自身の神秘主義的な経験を経て、生きてる間に仏に成ることもできるのではないかと考えるようになったに違いありません。つまり、生きている間に解脱を得て、他人の救済のために生きることができるのは即身成仏の思想の基本であるからです。
他人の救いを願う「菩薩(梵:bodhisattva)」は大乗仏教の理想の人間像です。しかし、一般の修行者も菩薩とみなされます。つまり、菩薩という言葉の意味、すなわち成仏するために悟りを求める人々と、悟りをそなえた人々との意味があります。(中略)
菩薩の二面の共通点は修行で得た功徳を「廻向(えこう)(梵:parinama)」することです。前者は救いのための「往生廻向(おうじょうえこう)」(仏になること)と、後者は相手の救いのための「還相廻向(げんそうえこう)」(菩薩になること)をおこないます。両者の廻向は基本的に不二です。つまり、菩薩は自分の成仏のために修行しながら他人の救済活動を行うものとされます。そして、菩薩の徳は慈悲と自己犠牲です。そこで、菩薩は涅槃の功徳さえ皆に廻向します(不住涅槃、無処所)。
その二面性は菩薩が用いる方法にも反映します。衆生済度に専念する菩薩は衆生を教化するために「方便(梵:upaya)」を用います(下化衆生;げけしゅじょう、菩薩になること)。そして、大乗仏教の修行者は解脱を得るためにその方便に従います(上求菩提;じょうぐぼだい、仏になること)。この方便思想においても不二思想があります。行者が実行する方便は、人を救うために使える方便であることも多いです。たとえば、アルコール依存症を乗り越えた人は、自分の体験した方法で同病に苦しむ他者も救いたいと望むようになります。
手段は何でもよいです。人を救うための手段として法則はなく時には嘘も必要で有効です。「嘘も方便」という表現はそれに基づいています。したがって、方便とは、衆生を教え導く巧みな手段です。その方法は、仏の説法の基本です。僧侶も相手のレベルに合わせて法を説くべきです(対機説法)。たとえば、子どものためには、子どものレベルに合わせて話すことが必要です。人を見て法を説くのが方便です。
大乗仏教では「成仏」と「方便」という思想の他に「如来蔵」(一切衆生に内在する仏となりうる可能性)という考え方も生まれてきました。人は皆すでに救われており、仏の心(仏心、如来蔵、仏性)をもっていますが、人はそれをまだ悟っていないという考え方です。空海は如来蔵思想を重視し、成仏に至る手段を、「三密行」と定め、皆が仏の心を肉身のままで体験し、開顕できると考えました(即身成仏思想)。
(P.150 l.4-6 l.9-12 l.24-p.152 l.9 p.152 l.11-14)
怨親平等、敵を愛しなさい
イエス・キリストは「敵を愛しなさい」、と命じました。なぜかというと、神の愛の立場から見ると、善人と悪人の区別はないからです。善人にも悪人にも同じように雨を降らせるように、神はすべての人を平等に愛していると聖書には書かれています。
あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ 5:45-48)
仏教では「怨親平等」(敵と友の平等さ)という言葉で同様の概念が言い表されています。禅寺で毎日唱える『菩薩願行門』の中では、敵は私たちの悪行を清めてくれる菩薩であるとの解釈に基づき、私たちは敵に慈悲を示すべきだと言っています。一方、イエスは十字架上にあって自分を殺そうとする人々のために次のように祈りました。
父よ、彼らをゆるしてください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ 23:34)
無明(無知)は自分の苦しみの原因であると同時に他人の苦しみの原因です。自分の無明を自覚してくると(智慧)、慈悲を示して相手をゆるすことができやすくなります。敵をゆるす力は相手の無明を意識することで憐びんと慈悲が生じることに基づいています。また、自分が犯した罪を思い出せば、他人の罪もゆるしやすくなります。
(p.130、l.9-24)
あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ 5:45-48)
仏教では「怨親平等」(敵と友の平等さ)という言葉で同様の概念が言い表されています。禅寺で毎日唱える『菩薩願行門』の中では、敵は私たちの悪行を清めてくれる菩薩であるとの解釈に基づき、私たちは敵に慈悲を示すべきだと言っています。一方、イエスは十字架上にあって自分を殺そうとする人々のために次のように祈りました。
父よ、彼らをゆるしてください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ 23:34)
無明(無知)は自分の苦しみの原因であると同時に他人の苦しみの原因です。自分の無明を自覚してくると(智慧)、慈悲を示して相手をゆるすことができやすくなります。敵をゆるす力は相手の無明を意識することで憐びんと慈悲が生じることに基づいています。また、自分が犯した罪を思い出せば、他人の罪もゆるしやすくなります。
(p.130、l.9-24)
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